2011年6月24日金曜日
おすすめ映画②
何もしなくても汗が出てきました。
これからもっと暑くなるのでしょうか?
さて、今日も映画の話題です。
今日のおすすめ映画は「出口のない海」です。
戦争末期、海軍が開発した人間魚雷、「回天」に乗り、敵艦に体当たりしていった、若者たちの苦悩と葛藤が描かれています。
特別攻撃隊が編成されるようになったのは、日本海軍が「皇国の興廃、此の一戦に在り」として臨んだ、昭和19年6月の「マリアナ沖海戦」で、最新鋭のレーダーやVT信管を搭載した対空砲を持つ米海軍に一方的な敗北をしたことで、その後の組織的な作戦を展開する能力を失ったことがきっかけです。特攻は当初、米軍を震撼させますが、次第に効果はほとんどなくなり、多くの若い命が失われます。散って逝った1人1人に夢や希望があって、その思いを断ち切って命を捧げていきます。今の時代に生きていてはなかなか理解できない感覚ですが、市川海老蔵が見事に演じてくれています。主人公の並木浩二は甲子園の優勝投手で、大学に入ってから肩を壊し、自身が魔球と呼ぶ変化球の完成に精力を注いでいました。戦争の色が濃くなる中、海軍に志願して、回天の操縦士になります。野球への思い、家族への思い、恋人への思いなど、これから死ななければならない若者の様々な感情が描かれています。
もうこんなに若い命が散ってしまう世の中にはしたくないですね。
こま切れですがyou-tubeで見れるようです。
2011年6月23日木曜日
お気に入りの映画①
湿気が多いのも加わって、稽古の時にかく汗の量が増えてまいりました。
この暑い中であえて雪景色の映画を見るのもなかなか良いかもしれません。
先日、龍の研修に毎週出席しているSさんとの世間話の中で、「もう高倉健も80歳だからね。」という一言があり、インターネットを調べてみると本当にそうでした。時間とは確実に流れゆくもので、そうですか高倉健さんも80歳ですか。としみじみとしてしまいました。
高倉健さんは任侠路線で一世を風靡した映画俳優として有名ですが、私としては「鉄道員」の高倉健さんが好きです。印象深いセリフは「俺は鉄道員(ぽっぽや)しかできねぇんだよ。」です。鉄道員という職業に誇りを持って人生を全うした不器用な男の哀愁がなんとも言えません。(俺は「たこ焼き」がやけねぇんだよ。いまだに気にしてます。)
男は背中で語れないとだめですね。私はまだまだです。
2011年6月21日火曜日
たこやきパーティー
稽古終了後、妙中邸にて「たこ焼きパーティー」が行われました。
生まれて初めてたこ焼きをひっくり返しました。いつもながら自分の不器用さを再確認。
しかし、焼きたてのたこ焼きは美味しい。そしてakiさんお手製の「スジコン丼」もこれまたたこ焼きによく合う。関西の人たちはこんなにおいしいものに囲まれて生活しているのですね。御馳走様でした。詳しくは「木更津さくら会のブログ」にて
2011年6月16日木曜日
2011年6月15日水曜日
2011年6月14日火曜日
ちまちました人生送るなよ。
他の方のほとんどは無理のようです。
Hootaちゃんの写真も近いうちに載せますので待っいてください。
しかし、車欲しいけど、どうしようかと思っていたところに、車をタダ同然で譲ってくれる人が現れるのはありがたかったです。車種名は「トヨタオーパ」。私にはもったいないくらいです。乗り心地は大変良いです。
さて、今日も「スバル」の時と同じように「トヨタ」の歴史についてさかのぼってみます。トヨタ自動車の発足の中心になった、豊田喜一郎にスポットを当ててみたいと思います。
トヨタ自動車は1933年、豊田佐吉が創業した豊田自動織機製作所の自動車部として始まりました。
織機制作における、鋳造、機械加工技術等のノウハウを生かして研究期間を経て、1935年に自動車製造を開始しました。この時に中心となったのは佐吉の長男、喜一郎でした。
大正10年、東京帝国大学工学部を卒業した喜一郎はアメリカに行き、街中にあふれる自動車に圧倒された。
当時、米国ではT型フォードがベルトコンベアで大量生産されていて、輝ける「大衆車時代」が幕を開けていました。帰国した喜一郎は日本に自動車工業を作ることを決意します。
T型フォードの車です。映画の世界ですね。
当時の日本で、産業としての自動車の大量生産は成功していなかった。
驚くほど多様な技術が必要なため、大財閥の三井・三菱でもあきらめた程コストがかかりました。
喜一郎の自動車開発は、当初設定された予算をはるかに超え、開発に対して周囲から猛反対の声が上がる中、2年後、トヨタAA型自動車が誕生しました。 まだまだ世界の水準には追い付かず頑丈なだけだったそうです。
トヨタAA型自動車
さあ、これから乗用車を大量生産しようとした矢先、日米開戦となり、軍用のトラックの生産に力を入れていくこととなります。終戦後、戦闘機や軍艦の製造に携わっていた技術者を大量に採用し、多くの人材の英知を結集し、昭和22年、「トヨペット」と愛称の付いたSA型乗用車を完成させます。
SA型乗用車
しかし、昭和25年、GHQから乗用車の製造の許可が下りず、細々とトラックの製造を行っていた「トヨタ」は経営危機に陥ります。喜一郎はじめ経営陣の退陣という形で、「トヨタ労働争議」は終結します。
その直後、朝鮮戦争の勃発により、米軍から軍用トラックの大量受注があり経営危機を脱します。
経営から退いた喜一郎は次の乗用車の構想を練っていました。
昭和27年2月、社長として返り咲くことが内定した喜一郎は「乗用車が作れるならと」最後の夢へと燃えていました。
昭和27年3月、豊田喜一郎 死去 (享年57歳)
設計図を広げたまま倒れ、意識を取り戻すことはなかったそうです。
今の日本にはこういう人が必要ではないでしょうか?
自分の信じる道を突き進んで国家に貢献する、豊田喜一郎があと5人いたら日本は生まれ変わるのではと思います。
いい学校いけなくたって、いい会社にはいれなくたっていいじゃないか。
やりたいことを思う存分にやって死にたいですね。
家の猫たち
まず家の中で飼っている、茶色の「チャー」ちゃんです。
次に家の敷地内でいつもうろうろしている、「クロ」ちゃん
「さくら日和」のSさんにもらった車の周りでうろうろしているシロちゃんです。野良猫共いいだろー。おれの初めての車だぜー。困ったことになかなか乗り心地がいいんだな。見た目以上に中も広いし。
(なんとこのブログによくコメントくださる、「みき」さんの車もも色違いでおそろいの「トヨタ オーパ」だったことが分かりました。「みき」さん、今度並んで走りましょう!「浦安オーパ愚連隊」の結成ですね。)
他にも一匹だけ筋肉隆々で他の猫をいつもいじめている「Hotta」ちゃんもいます。
(名前には実在の人物等は一切関係ありません!!!)
家の敷地に野良猫として現れたこいつらはあまりに頑固に居座るので最近は追い払うのを止めました。エサまで上げています。
猫好きな方はよく猫に対して話しかけますよね。あの心境はいまだによくわかりません。
猫にしてみれば、自分達の住処に夜だけ帰って来て、エサだけくれる人間と思われているのだろうと思います。
2011年6月12日日曜日
いのちの根
早めになんとかしたいと思います。
コメントいただいていた方々申し訳ありません。
先日、田中大偉君をひき逃げした犯人が捕まったとの連絡がありました。しかし犯人が逮捕されても大偉君はかえってきません。残された家族の喪失感は計り知れないものがあると思います。
人が亡くなった時、その人が若ければ若いほど、もし早く亡くなってしまうことが運命だったのならば、その人の人生にはどんな意味があったのか、どんな役割を持ってこの世に生まれてきたのだろうかと考えさせられます。
あいついい奴だったなぁ。合気道も好きだったろうな。
きっと今頃天国でお父さんやお母さんに「悲しい思いをさせてごめん。」て謝ってるんだろうな。
残された御家族は今は悲しみに暮れていることと思いますが、早く悲しむのをやめて、元気が取り戻せる日が来ることお祈りいたします。残された家族が早く立ち直って明るく暮らしていくことが一番の供養だと思いますから。
以下、相田みつをさんの「いのちの根」という詩です。
なみだをこらえて
かなしみにたえるとき
ぐちをいわずに
くるしみにたえるとき
いいわけをしないで
だまって批判にたえるとき
いかりをおさえて
じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが
ふかくなり
いのちの根が
ふかくなる
2011年6月3日金曜日
2011年6月1日水曜日
アディオス! アミーゴ!!
5月も色々とありました。
アルゼンチン一行が来日したり、車を譲ってくれる人が現れたり、なかなか面白いものです。
とりあえず、今回はアルゼンチン一行を鴨川へそば打ちと陶芸を体験してもらいに行った写真をアップします。
ラテン系のノリで、皆さん陽気です。
ミッキーさんにかかればみんな「ちゃん」付けで呼ばれます。
左から「サンちゃん」、「フェルちゃん」、「ガブちゃん」です。
水を入れてこねた「そば」を平らにしています。